両利きの経営
なぜ、業界を代表するような成熟企業ほど、後発企業による破壊的なイノベーションに飲み込まれてしまうのか。
この問いに対する有力な回答として経営学で体系化されてきたのが、両利きの経営(Organizational Ambidexterity。Ambidextrous Organizationと呼ばれることもある)である。
既存事業の効率化を突き詰めるほど組織は「深化」に偏り、不確実性の高い新規事業を試す「探索」の力を失いやすい。
この二律背反をどのように組織設計・リーダーシップで克服するかを整理した理論であり、戦略コンサルティングの現場でも新規事業戦略、事業ポートフォリオの再編、DX推進の議論において頻繁に参照される概念となっている。
両利きの経営とは
両利きの経営(Organizational Ambidexterity)は、ジェームズ・G・マーチ(James G. March)教授が1991年の論文「Exploration and Exploitation in Organizational Learning」で提示した「探索(exploration)」と「深化(exploitation)」という組織学習上の対比概念を土台としている。
この概念を経営組織論・イノベーション論の実践的フレームワークとして発展させ、体系化したのが、スタンフォード大学のチャールズ・A・オライリー教授と、ハーバード・ビジネス・スクールで教鞭を執ったマイケル・L・タッシュマン教授らである。
Ambidexterity(両利き)という言葉自体は「両手が利き手であること」を意味する英単語であり、経営学の文脈では「一つの組織が相反する二つの活動を同時にこなす能力」の比喩として用いられている。
この概念を組織論として体系化した代表的な先行研究として引用されることが多いのが、タッシュマンとオライリーが1996年に発表した論文である。
同論文では、両利き(Ambidexterity)を、同一企業内に複数の相反する構造やプロセスを併存させ、漸進的なイノベーションと非連続なイノベーションを同時に遂行する組織的能力として捉えている。
その後、2004年にはハーバード・ビジネス・レビュー誌に掲載された論文「The Ambidextrous Organization」で、この考え方がさらに実務家向けに整理された。
両利きの経営を構成する二つの軸は次のとおりである。
- 深化(exploitation):既存事業が持つ知見・技術・顧客基盤を継続的に磨き込み、効率と収益性を高めていく活動
- 探索(exploration):自社の既存の認知の枠を超えて、新しい市場・技術・事業機会を試行錯誤しながら開拓していく活動
両利きの経営が成立する条件は、この深化と探索が「どちらか一方」ではなく「両方が高い水準で並立している」ことである。
どちらか一方に偏った状態は両利きとは呼ばず、深化偏重は「コンピテンシー・トラップ」、探索偏重は「失敗の罠」と整理されることが多い。
なお、両利きを実現する組織設計のアプローチには複数の類型があることも境界条件として押さえておきたい。
探索部門と深化部門を別組織として切り分ける「構造的両利き」、一つの組織のなかで個人やチームが状況に応じて探索と深化を使い分ける「文脈的両利き」、探索と深化を行う時期を意図的にずらしていく「順序的(時間的)両利き」の三つが代表的な類型として整理されている。
構造的両利きを機能させるためには、探索部門と深化部門がそれぞれ独立した文化・評価制度を持ちながらも、経営陣レベルでは共通の戦略的意図やビジョンによって統合されていることが条件として指摘されている。
この統合メカニズムを欠くと、探索部門が単なる「本業から切り離された実験部署」として孤立し、深化部門が持つ既存の顧客基盤・技術資産・販売網を活用できなくなる点にも注意が必要である。
また、両利きの経営という日本語訳は「organizational ambidexterity」の訳語として定着しているが、経営学の実証研究では、探索と深化を高い水準で両立できている企業ほど、長期的なイノベーション創出とパフォーマンスが高い傾向にあることが繰り返し確認されてきた。
| 観点 | 深化(exploitation) | 探索(exploration) |
|---|---|---|
| 目的 | 既存事業の効率化・収益最大化 | 新規事業機会の発見・検証 |
| 求められる行動様式 | 標準化・改善・オペレーション遵守 | 仮説検証・実験・失敗からの学習 |
| 評価軸 | 短期的な収益性・生産性 | 学習速度・オプション価値 |
| 組織アプローチの例 | 既存事業部・機能別組織 | 新規事業部・出島組織・CVC |
具体例/ミニケース
両利きの経営が語られる際に頻繁に取り上げられる事例が、写真フィルム事業を祖業とする富士フイルムや、板ガラス事業を祖業とするAGCといった日本の製造業大手である。
写真フィルム事業という既存の中核事業(深化)を持ちながら、化粧品や高機能材料といった新規領域(探索)へ経営資源を再配分し、事業構造そのものを転換してきた点が、両利きの経営の典型例として国内の経営学研究でも取り上げられている。
AGCについては、板ガラス事業を祖業としながら電子材料や化学品といった新規領域を育成してきた点に加え、スタンフォード大学経営大学院のオライリー教授自身が同社を「両利きの経営」を実践する日本企業の事例として調査・教材化したことでも知られている。
なお、国内のイノベーション研究・経営史研究の文脈では、空調機メーカーとして知られるダイキン工業についても、創業期に軍需事業を維持しながら冷凍機・空調機という民需製品の開発を並行して進めた経緯が、深化と探索を同時並行で進めた事例として分析されている。
戦後には米軍関連の特需を活用しつつ空調事業の育成を加速させる意思決定を行っており、経営環境が大きく変化する局面でも両立的な資源配分を続けたことが、事業転換の持続性につながったと分析されている。
前述のAGC・富士フイルムがオライリー教授ら自身によって国際的な教材・ケーススタディ化されているのに対し、ダイキン工業の事例は主に日本国内の経営学者による分析として取り上げられている点に、文脈上の違いがある。
海外企業の事例としては、動画配信大手のネットフリックスがDVDレンタル事業(深化)とストリーミング配信事業(探索)を一時的に併存させながら段階的に主力事業を転換した経緯が、両利きの経営の代表的なケースとして書籍や学術研究のなかで繰り返し取り上げられている。
同社は、DVDレンタル事業から得られる安定的なキャッシュフローを活用しながら、不確実性の高いストリーミング事業へ継続的に投資を続けた点が、両利きの経営の典型例として評価されている。
いずれの事例にも共通するのは、既存事業を急に縮小させるのではなく、既存事業から得られる資金・技術・顧客基盤を新規事業の探索に再投資しながら、緩やかに事業構造をシフトさせている点である。
探索・深化フレームワークと関連理論の比較
両利きの経営は、しばしば近接する経営理論と混同される。以下に主要な関連理論との違いを整理する。
| 理論・手法 | 主眼 | 両利きの経営との関係 | 主な使用場面 |
|---|---|---|---|
| イノベーターのジレンマ | 優良企業が破壊的技術に対応できず衰退する構造の説明 | 両利きの経営はこの構造への処方箋の一つとして位置づけられる | 破壊的イノベーションのリスク分析 |
| ダイナミック・ケイパビリティ | 環境変化に応じて組織能力そのものを再構築する力 | 両利きの経営を実行するための土台となる組織能力と位置づけられる | 中長期の組織変革・経営資源再配分 |
| 選択と集中 | 経営資源を強みのある事業領域に絞り込む | 深化に近い発想であり、探索の弱体化リスクを内包する点で対照的 | 事業ポートフォリオの絞り込み |
| 多角化経営 | 複数事業領域への展開によるリスク分散 | 事業数の拡大自体が目的である点で、探索と深化の同時追求を目的とする両利きの経営とは前提が異なる | 事業ポートフォリオの拡張 |
コンサルティング業務での位置づけ
両利きの経営は、戦略コンサルティングにおいて新規事業戦略やポートフォリオマネジメントの案件と親和性が高い理論である。実務での活用イメージを4つの観点から整理する。
論点設計(イシュー出し)
新規事業戦略の案件では、「既存事業の収益を守りながら、どこまで新規領域に資源を振り向けるべきか」という論点が中心となる。
両利きの経営のフレームは、この論点を「深化側のリスク(既存事業の陳腐化)」と「探索側のリスク(新規事業の未成熟)」に分解し、両者のバランスをイシューとして構造化する際の土台になる。
現状分析(As-Is整理)
現状分析では、事業ポートフォリオを深化事業と探索事業に分類し、それぞれへの経営資源(人員・投資額・意思決定権限)の配分状況を可視化する。
多くの成熟企業では、売上・利益の大半を深化事業が占める一方、探索領域への配分が過小である傾向が確認されやすく、この偏りの定量化が分析の出発点となる。
施策設計(To-Be)
施策設計では、探索領域を担う専任組織(出島型組織やCVCなど)の設置、深化領域と探索領域で異なる評価指標・人事制度を適用する仕組みづくりなど、構造的両利きを実現するための組織設計案を検討する。
あわせて、経営陣が両利きの意義を社内に発信し、部門間の摩擦を調整するリーダーシップの設計も論点となる。
資料作成(スライド構造)
クライアント向け資料では、縦軸に深化・探索、横軸に現状・将来のポジションを取ったマトリクスで事業ポートフォリオを可視化し、各事業がどちらの象限に位置するかを一覧化するスライドがよく用いられる。
あわせて、探索事業への資源シフトのロードマップを時系列で示す構成が定番となる。
導入メリットと注意点
両利きの経営を導入するメリットは、既存事業の安定的な収益基盤を維持しながら、将来の成長の芽を計画的に育てられる点にある。深化のみに依存した経営に比べ、環境変化への耐性が高まりやすい。
一方で注意点も存在する。探索事業と深化事業では求められる評価軸・人材要件・意思決定スピードが大きく異なるため、同一の評価制度・予算配分ルールを適用すると、探索事業が短期的な収益性の観点から淘汰されやすい。
また、経営陣が探索領域への資源配分に一貫したコミットメントを示さない場合、現場レベルでは深化への回帰圧力が強く働きやすい点も、導入時に留意すべき論点である。
さらに、両利きの経営は必ずしも大企業だけの理論ではないものの、探索部門を独立して設置するための経営資源に乏しい中小企業では、構造的両利きをそのまま適用することが難しい場合がある。
こうした場合には、同一チームのなかで期間や役割を区切りながら探索と深化を交互に担う文脈的両利き・順序的両利きのアプローチが、より現実的な選択肢として検討される。
コンサル採用面接で問われる理由
面接官が両利きの経営という用語そのものを直接、ダイレクトに問うことは多くない。むしろ、ケース面接で新規事業や事業ポートフォリオに関する論点を扱う際、探索と深化という構造を内面化した思考が、回答の骨格に深みを与える形で活きてくる。
例えば「成熟企業の成長戦略」を問うケース設問では、既存事業への追加投資(深化)と新規領域への進出(探索)という二軸で選択肢を整理する視点があると、論理展開に説得力が生まれやすい。
用語やフレームワーク名を面接の場で持ち出す必要は特になく、背景にある考え方の骨格をおさえておけば、ケース解答や志望動機を語る際の思考の土台として十分に機能する。
FAQ
Q1. 両利きの経営とは何を指す概念か?
両利きの経営とは、既存事業を深める「深化」と新規事業を切り拓く「探索」を、一つの組織のなかで同時に高い水準で追求する経営理論である。
スタンフォード大学のオライリー教授とハーバード・ビジネス・スクールのタッシュマン教授らによって体系化され、成熟企業がイノベーションのジレンマを克服するための処方箋として、世界の経営学で広く実証研究が積み重ねられてきた。
日本でも入山章栄氏監訳の書籍を通じて実務界に広く浸透している概念である。
Q2. 両利きの経営とイノベーターのジレンマは何が違うのか?
イノベーターのジレンマは、優良企業がなぜ破壊的技術に対応できず衰退するのかという「問題構造」を説明する理論である。
これに対して両利きの経営は、その問題を克服するための「処方箋」に位置づけられる理論であり、探索部門を組織的にどう設計するかという実践的な打ち手に踏み込んでいる点が異なる。
両者は対立する理論ではなく、前者が提示した課題に対して後者が組織論の観点から回答を試みている関係にある。
Q3. 両利きの経営はどのように実践されるのか?
実践のアプローチには大きく三つの型がある。
探索部門と深化部門を別組織として分離する「構造的両利き」、一つの組織内で個人が状況に応じて探索と深化を使い分ける「文脈的両利き」、探索と深化を行う時期を意図的にずらす「順序的両利き」である。
多くの大企業では、既存事業部とは別に新規事業専門の組織や出島型組織を設置し、評価制度・意思決定権限を切り分ける構造的両利きが採用される傾向にある。
Q4. コンサルティングの現場では両利きの経営はどのように活用されるのか?
戦略コンサルティングでは、新規事業戦略やポートフォリオ再編の案件において、事業を深化と探索の二軸で分類し、経営資源の配分状況を可視化する分析フレームとして活用される。
あわせて、探索領域を担う専任組織の設計や、深化事業とは異なる評価指標の設計支援など、組織設計の実務にも応用される。
売上構成比だけでなく、投資額や意思決定の意思決定権限がどちらの領域に偏っているかを定量的に示すことが、実務上の説得力を高める工夫となる。
Q5. 両利きの経営に関してよくある誤解は何か?
よくある誤解の一つが、両利きの経営を「新規事業さえ始めれば実現できる」と捉えてしまうことである。
実際には、新規事業(探索)を始めるだけでは不十分であり、既存事業(深化)の効率性を維持しながら、両者を並立させる組織設計とリーダーシップが不可欠である。
また、探索と深化を同一の評価基準で測ろうとする運用も誤解に基づく失敗パターンとして指摘されており、両者に異なる評価軸を設けることが実践上の前提となる。
Q6. 両利きの経営の導入がうまくいかない典型的なパターンは何か?
典型的な失敗パターンは、探索部門を設置したものの、既存事業と同一の短期収益目標・評価制度を適用してしまい、探索部門が「儲からない部門」として社内で淘汰されてしまうケースである。
また、経営トップが探索領域への資源配分に一貫した関与を示さず、現場の意思決定が深化側の論理に引き戻される状態も、両利きの経営が形骸化する主な要因として整理されている。
Q7. 両利きの経営は中小企業やスタートアップでも実践できるのか?
両利きの経営は大企業に限定される理論ではないが、探索部門を別組織として独立させる構造的両利きは、経営資源の限られる中小企業やスタートアップでは実践のハードルが高い。
そのため、こうした企業では、同一チームや同一の担当者が期間や曜日を区切って探索業務と深化業務を担う文脈的両利き、あるいは事業フェーズに応じて探索と深化の比重を意図的に切り替える順序的両利きのアプローチが、より現実的な選択肢として位置づけられている。
規模に応じてアプローチを使い分けられる点も、この理論が幅広い企業に応用されてきた理由の一つである。
まとめ(実務整理)
両利きの経営は、既存事業の深化と新規事業の探索という一見相反する活動を、組織設計とリーダーシップによって同時に成立させようとする理論である。
戦略コンサルティングの実務においては、事業ポートフォリオの現状分析や新規事業戦略の論点整理において参考になる視点であり、理解しておくと事業構造を俯瞰的に捉える助けになる。
採用面接との関係でいえば、用語そのものを暗記する必要性は高くなく、探索と深化という構造をベーシックな知識として概要でおさえておけば、ケース面接や志望動機の思考整理において十分な基盤となる。
出典
- March, J. G.(1991)"Exploration and Exploitation in Organizational Learning" Organization Science, 2(1), 71-87.(探索・深化という対比概念の原典論文、INFORMS公式ページ):https://pubsonline.informs.org/doi/10.1287/orsc.2.1.71
- Tushman, M. L., & O'Reilly, C. A.(1996)"Ambidextrous Organizations: Managing Evolutionary and Revolutionary Change" California Management Review, 38(4), 8-30.(両利きの経営を組織論として体系化した代表的な原典論文、SAGE Journals公式ページ):https://journals.sagepub.com/doi/10.2307/41165852
- 両利き経営理論とマネジメント・コントロール研究に関する考察(市原勇一、日本原価計算研究学会誌、J-STAGE掲載):https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcar/48/1/48_12/_pdf/-char/en
- 『両利きの経営(増補改訂版)』チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン著、入山章栄監訳・解説、東洋経済新報社(出版社公式ページ):https://str.toyokeizai.net/books/9784492534519/
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