エンプロイーエクスペリエンス(EX)
給与や福利厚生への満足度を高めれば、従業員は本当に組織に定着し、力を発揮してくれるのか。この問いに、従来型の従業員満足度調査(ES調査)とは異なる角度から答えようとするのが、エンプロイーエクスペリエンス(Employee Experience、以下EX)という考え方である。
ある一時点の満足度を測る指標にとどまらず、採用選考から入社、育成、評価、異動、そして退職に至るまでの一連のプロセスを「体験」として捉え直し、その質を高めることで、従業員のパフォーマンスや組織への貢献意欲を引き出そうとする発想である。
人的資本経営への関心が世界的に高まる中、EXは、単なる人事施策の一つにとどまらず、人的資本経営を具体化する考え方の一つとして語られるようになっている。組織開発や人的資本経営の支援に携わるコンサルティング業務において、EXの成り立ちと、関連する概念との違いを理解しておくことは実務上の意義を持つ。
エンプロイーエクスペリエンス(EX)とは
EXを体系的に整理し、世界的な普及を後押しした代表的な人物の一人が、米国の未来学者ジェイコブ・モーガン(Jacob Morgan)氏である。同氏は2017年に書籍『The Employee Experience Advantage(邦題:エンプロイー・エクスペリエンス戦略、クロスメディア・パブリッシング刊)』を出版した。
モーガン氏は同書の中で、150人以上の経営幹部への取材と250以上の組織の分析をもとに、従業員の体験を形づくる要素を、代表的な整理として「物理的環境(オフィス空間等)」「技術的環境(業務ツール等)」「文化的環境(組織文化や価値観)」の3つに分類し、これらを意図的に設計することで、従業員の働きがいと組織の業績を同時に高められると論じた。
同書では、早くからEXに専任の役員を置いていた企業として、従業員体験グローバルヘッド(Global Head of Employee Experience)を設置したAirbnbや、従業員体験担当の役員を置いたAdobe等の事例が紹介されている。
なお、EXという概念そのものは、モーガン氏に加えて、Gartner、Deloitte、IBM等の調査会社・コンサルティングファームもほぼ同時期から発信しており、複数の論者・機関によって並行して発展してきた考え方である点にも留意されたい。
EXが従来の「従業員満足度(ES:Employee Satisfaction)」や「エンゲージメント」としばしば同一視される点には注意が必要である。
ES調査は、給与や福利厚生、職場の人間関係といった特定の項目について、ある時点での満足度を測定する、いわば結果指標としての性格が強い。
これに対しEXは、入社前の採用選考段階から退職に至るまでの時系列に沿った一連のプロセス(体験の連なり)そのものを扱い、満足度という結果が生まれる過程や文脈を設計しようとする点で性質が異なる。
問題が顕在化してから対応する事後的な取組みになりがちなES調査に対し、EXは体験の設計を通じて問題の発生を未然に防ごうとする、より予防的な発想に立つ点が特徴である。
三者の関係を整理すると、EXが「原因」となる体験そのものを扱い、エンゲージメントはその体験を通じて形成される「心理的な状態」を、ESはさらにその先に表れる「結果」としての満足度を捉えるものと理解すると、位置づけの違いがつかみやすい。
日本国内では、EXという言葉そのものを法令や公的指針が直接定義しているわけではないが、経済産業省が2020年以降推進してきた人的資本経営に関する一連の政策的な議論の中で、従業員をコストではなく資本として捉え、その価値を引き出す経営のあり方が重視されるようになった流れと、EXへの関心の高まりは軌を一にしている。
人的資本投資の効果は、投資の受け手である従業員が実際にどのような体験をし、行動変容につながるかによって左右されるという指摘もあり、人的資本経営を実践する上での具体的な切り口として、EXが参照されるようになっている。
| 環境 | 内容 |
|---|---|
| 物理的環境 | オフィス空間、レイアウト、働く場所の設計等 |
| 技術的環境 | 業務で使用するツールやシステムの使いやすさ等 |
| 文化的環境 | 組織文化、価値観、リーダーシップのあり方等 |
具体例/ミニケース
IT企業C社が、離職率の高さに悩みEXの向上に取り組むケースで考えてみる。C社はまず、ES調査の結果だけでは離職の真因を特定できていないことに気づき、入社から現在に至るまでの従業員の体験を、採用選考、オンボーディング(入社後の受け入れ)、日常業務、評価、キャリア形成という段階ごとに棚卸しした。
その結果、入社直後のオンボーディング期間に、必要な情報や支援が十分に提供されておらず、新入社員が孤立感を抱きやすいという課題が明らかになった。
C社は、この課題に対応するため、入社後3か月間のメンター制度を導入し、定期的な1on1面談を通じて新入社員が抱える不安や疑問を早期に把握できる体制を整えた。あわせて、評価制度についても、年に一度の評価面談だけでなく、日常的なフィードバックの機会を増やす形に見直した。
半年後、FF社は新入社員の早期離職率が改善したことを確認し、あわせて実施した従業員サーベイでも、オンボーディング期間の満足度が向上したことを把握した。このケースが示すのは、EXへの取組みが、単発の満足度調査への対応にとどまらず、従業員が経験する一連のプロセスを見直す継続的な活動であるという点である。
従業員満足度(ES)・エンゲージメントとの違い
EXは、従業員に関する他の指標や概念としばしば同一視される。共通点は「働く人の状態を良くする」という目的だが、それぞれが着目する時間軸や性質は異なっている。
| 概念 | 扱う時間軸 | 性質 |
|---|---|---|
| エンプロイーエクスペリエンス(EX) | 入社前から退職までの一連のプロセス | 体験の設計を通じた予防的なアプローチ |
| 従業員満足度(ES) | ある時点での状態 | 特定項目への満足度を測る結果指標 |
| エンゲージメント | 継続的な心理的な状態 | 組織への貢献意欲や愛着の度合いを示す指標 |
コンサルティング業務での位置づけ
論点設計(イシュー出し)
組織開発や人的資本経営関連のプロジェクトでは、クライアント企業の課題が、特定時点の満足度改善で対応可能なものか、それとも従業員体験全体の再設計を要するものかという見極めが、初期段階の重要な論点となる。コンサルタントは、離職率や採用競争力等の経営課題を踏まえ、EXへの取組みの必要性を検討する役割を担う。
現状分析(As-Is整理)
現状分析のフェーズでは、採用選考からオンボーディング、日常業務、評価、退職に至るまでの各段階における従業員の体験を棚卸しし、既存のES調査やエンゲージメント調査の結果と突き合わせる。従業員へのヒアリングやサーベイを通じて、体験上のボトルネックとなっている段階を特定する作業が中心となる。
施策設計(To-Be)
施策設計の段階では、物理的環境・技術的環境・文化的環境のいずれに課題があるかを踏まえ、具体的な改善施策を検討する。オンボーディングプログラムの見直しや、フィードバックの頻度・仕組みの改善など、体験の質を高めるための打ち手を段階ごとに整理する。
資料作成(スライド構造)
経営層向け資料では、入社から退職までの各段階を時系列で示した「エンプロイージャーニーマップ」と、各段階における課題・改善施策を対応させた一覧表をセットで示す構成が定番である。従業員体験の全体像とボトルネックを一枚で確認できる構造にすることで、経営層が投資判断をしやすくなる。
導入メリットと注意点
EXへの投資に取り組む利点は、従業員の働きがいを高めることを通じて、優秀な人材の獲得・定着や、組織全体のパフォーマンス向上につなげられる点にある。
問題が顕在化する前に体験の質を見直す予防的なアプローチは、離職や採用難といった課題への対応コストを抑える効果も期待される。
一方で、留意すべき点も多い。第一に、EXは入社から退職までの幅広いプロセスを対象とするため、どの段階から着手すべきかという優先順位付けが難しく、総花的な取組みに陥りやすい。
第二に、体験の質という定性的な要素を扱うため、投資対効果を定量的に示しにくく、経営層への説明に工夫を要する場合がある。
第三に、物理的・技術的・文化的環境という3つの要素は相互に関連しており、いずれか一つだけを改善しても、体験全体の向上にはつながりにくい。
これらを踏まえ、実務では、従業員サーベイやヒアリングを通じてボトルネックとなっている段階を特定し、そこから段階的に取組みを広げていく姿勢が重視されている。
コンサル採用面接で問われる理由
コンサルティングファームの採用面接で、EXという用語そのものがそのまま問われることは多くない。
ただし、人的資本経営や組織開発をテーマにしたケース面接では、従業員の定着や生産性向上をどう実現するかという論点が扱われることがあり、その際に「満足度という結果ではなく、体験というプロセスに着目する」という発想を持っているかどうかが、回答の説得力を左右する。
単に「福利厚生を充実させる」という発想にとどまらず、入社から退職までの一連の体験を設計するという視点まで語れると、議論に厚みが生まれる。
こうした視点を備えておくことは、ケース解答の質を底上げする一助になる。物理的・技術的・文化的環境という分類を逐一暗記しておく必要はなく、従業員の体験は結果ではなくプロセスとして設計するものだという考え方の骨格を理解しておけば、面接の議論の中で自然に応用できる。
FAQ
Q1. エンプロイーエクスペリエンス(EX)とは、どのような概念か。
エンプロイーエクスペリエンス(EX)とは、従業員が入社から退職に至るまでの過程で、職場環境や業務、人間関係等を通じて得るあらゆる体験の質を指す概念である。
英語表記はEmployee Experienceであり、米国の未来学者ジェイコブ・モーガン氏が2017年に出版した書籍『The Employee Experience Advantage(邦題:エンプロイー・エクスペリエンス戦略)』を通じて世界的な普及が進んだ。
同氏はこの概念を広めた代表的な人物の一人であり、GartnerやDeloitte等の調査会社・コンサルティングファームもほぼ同時期からEXに関する発信を行っている。モーガン氏の著書は、体験を形づくる要素を代表的な整理として物理的環境・技術的環境・文化的環境の3つに分類している。
Q2. EXと従業員満足度(ES)とは、何が違うのか。
最も大きな違いは、扱う時間軸と性質にある。従業員満足度(ES)は、給与や福利厚生等の特定項目について、ある時点での満足度を測定する結果指標である。
これに対しEXは、入社前から退職までの時系列に沿った一連のプロセスを扱い、満足度という結果が生まれる過程や文脈そのものを設計しようとする点で異なる。ESが問題発生後の事後的な対応になりやすいのに対し、EXは体験の設計を通じた予防的なアプローチという性格を持つ。
Q3. EXを高める取組みは、どのような手順で進めるのか。
実務における一般的な手順は、まず入社前から退職までの各段階における従業員の体験を棚卸しし、既存のES調査やエンゲージメント調査の結果と突き合わせることから始まる。
次に、従業員へのヒアリングやサーベイを通じて、体験上のボトルネックとなっている段階を特定し、物理的・技術的・文化的環境のいずれに課題があるかを整理する。特定した課題に対する改善施策を実行し、その効果を継続的にサーベイ等で検証しながら、取組みを見直していく。
Q4. コンサルティングプロジェクトでは、EXはどのように扱われているのか。
コンサルティングの現場では、クライアント企業の離職率改善や採用競争力強化を目的としたプロジェクトにおいて、従業員体験の現状分析やエンプロイージャーニーマップの作成を支援する場面でこの概念が扱われる。
また、人的資本経営の実践に向けて、人材戦略の具体的な施策としてEXへの投資を位置づけ、経営戦略との結びつきを整理する役割としても活用される。
Q5. EXについて、どのような誤解が生じやすいのか。
よくある誤解の一つは、EXはオフィス環境や福利厚生を充実させることだと考えてしまうことである。実際には、物理的環境だけでなく、業務ツールの使いやすさといった技術的環境や、組織文化・リーダーシップのあり方といった文化的環境まで含めた、より幅広い概念である。
もう一つの誤解は、EXへの取組みは人事部門だけの課題だと考えてしまうことであり、実際には、経営層や現場の管理職を含めた組織全体で取り組むべき課題として位置づけられている。
Q6. EXは、どのような背景から注目されるようになったのか。
背景の一つとして、労働市場における人材獲得競争の激化が挙げられる。優秀な人材が転職や就職先を選ぶ際に、給与水準だけでなく、働く環境や組織文化への関心を強めていることから、企業側も従業員の体験価値を高める必要に迫られている。
また、大手コンサルティングファームが毎年発行する人的資本関連のトレンドレポートでEXが重要テーマとして取り上げられたことも、関心の高まりを後押ししたとされている。
まとめ(実務整理)
エンプロイーエクスペリエンス(EX)は、従業員が入社から退職に至るまでの過程で、職場環境や業務、人間関係等を通じて得るあらゆる体験の質を指す概念である。
2017年のジェイコブ・モーガン氏の著書を通じて世界的に体系化され、人的資本経営への関心の高まりとともに、経営戦略の中核に位置づけられる考え方として広がってきた点に実務上の意義がある。
従業員満足度(ES)やエンゲージメントとは、扱う時間軸や性質という点で異なる概念である点を理解しておくと、人材マネジメントに関する議論の見取り図がつかみやすくなる。
人材獲得競争が激しさを増す中、従業員がどのような体験を経て組織に定着し、力を発揮するかという視点は、採用ブランディングや人材戦略を検討するうえでも欠かせないものになりつつある。
コンサルティング業務との関係でいえば、満足度という結果ではなく体験というプロセスに着目する視点が、組織開発関連プロジェクトにおいて参考になる。
採用面接との関係でいえば、分類の細部を暗記する必要はなく、従業員の体験は結果ではなくプロセスとして設計するものだという考え方の骨格を押さえておけば、十分な知識基盤となる。
出典
- PwC Japanグループ「これからの経営に不可欠なエンプロイーエクスペリエンス(EX)の役割と展望」
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/column/people-change/ex-role-prospect.html - WTW「エンプロイー・エクスペリエンスは経営をどう変えるか」
https://www.wtwco.com/ja-jp/insights/2022/06/how-employee-experience-changes-management - Wiley「The Employee Experience Advantage」(Jacob Morgan著、書籍紹介ページ)
https://www.wiley.com/en-us/The+Employee+Experience+Advantage%3A+How+to+Win+the+War+for+Talent+by+Giving+Employees+the+Workspaces+they+Want%2C+the+Tools+they+Need%2C+and+a+Culture+They+Can+Celebrate-p-9781119321620
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